「わからない」を大切に
先日、生徒に言われました。
先生は英語の先生に見えない。
国語とか社会っぽいですよ。
基準がなんなのかわかりませんが、見た目ですかね。
それなのに私に地学と物理の質問をするのはなぜでしょう笑
私の専門がなんなのか、正直わかりません。
民間の教育現場では、すべて教えられるのが当然です。
私は日本の教育を中学から受けました。
それまではオーストラリアで野山を自転車で走り回っていました。
したがって、出発点は「わからない」でした。
定期テストで「ミカヅキモ」を「ミカズキモ」と書いて不正解でした。
笑われました。
友達に「舌打ち」の意味を聞いたこともあります。そして国語の教科書に「ちぇっ」と書きこみました。
実はその教科書、隣のクラスの子から借りたもので、
後で爆笑されました。
一つだけ確かなことは、私には「わからない」気持ちが「わかる」ことです。
わからないことは、恥ずかしいことではありません。
わからないことを隠したり、劣っていると考えないでください。
わかるために、どうすれば良いのか考えることが大切だと思います。
私の仕事は確かに教えることです。
しかし、本当の願いは「思いやり」と「自己解決力」を持ってほしいということです。
だから今はまだ、わからなくていいのです。